昭和53年10月15日 前夜祭



 神様と私共の間の事、これはこれほど真剣なものはない、いや真剣さを求められるものはないと思うんです。もういささかのいうなら真剣さを欠いだらもう欠いただけの事です。いかに立派な刀がありましても、中身がもし竹光であったとするならば、もういよいよの時に役に立たないのとおんなじです。どんなに金光様の信心頂いております、いやぁ合楽にご縁を頂いておりますというても。中身がね中身が何時でもどんな時でもそれが、お役に立つ信心をさして頂かなければ、信心の値打ちがありません。
 お道の特に合楽で申しております、神様と私共の間に起きる一つの感じ、感じられると言う事、そこから生れて来るところのおかげでなからなければ、よいものは生まれて参りません。それはお取次ぎを頂いてお願いを致します。真剣さがなくっても通わなくても、おかげはまぁ頂けましょうけれども、それではあまりもの信心であります。でも信心は芯が真実助かる事のために信心があるんだと。ただおかげを頂いただけで助かるならそれでいいですけれどもね。
 おかげを頂いただけでは人間は助かる事は、助かると言う事にはなりません。先日からもお知らせに頂きました事でした事けれども、信心のない人達の姿と言うものは、あればあるで必ず食べ過ぎる。まぁこうやってだけの事じゃありませんよ、言うなら贅にまかせ金にまかせての事を致します。致しましたからというて満足かと言うと、それでも足りない足りない。またはなら腹いっぱい頂いた、もうそれこそ信心の無い者の生き方というものは、反吐が出る様なものだと。
 これは神様が御覧になってからではありません。むいみいがその中の実感の中にあるのじゃないだろうか。ものもあります金ありますけれども、自分それこそ金次第でどんな事でも出来る人でも、出来れば出来る程いわば反吐がでる思いをしておるのじゃないでしょうか。というて言うならば一生まぁ貧乏なら貧乏に明け暮れた人達がです、信心の無い人達の姿というものは、もうそれこそ何時も欲しい何時も欲しいという、いうならそれこそ餓鬼道に落ちた亡者の様なものじゃないだろうか。
 これは神様が御覧になってですね、あぁあれも足らんこれも欲しいあれが欲しいと思うておる者の姿というものは、ちょうど餓鬼道に落ちた亡者の様な風に、神様は御覧になるのではなかろうか。してみるとそれもやはり神様の目からご覧になれば、反吐が出る様なものだと私は思う。そんならお道の信心を頂いておる者が、ならそうではないかと、何時もの例えばお腹は腹八分であるとかね、欲しいを欲しいと言った様なものを、感じていないかと言うとさにあらず。
 お道の信心頂いておりましても、只今申します様にただおかげを、真剣もなからなければ神様に通うものもない。それでもお参りをしてお願いをすればおかげを受ける。おかげを受けるから御神縁を頂いておるというだけなら、おんなじ事が言えるのじゃないだろうかね。神様と私共とのいうならば合楽し合えれる感じ合えれる世界。そこから生みなされて来るところのおかげ、もうそれこそ勿体無い有り難い、思い言うならば思い以上のおかげを何時も頂いて、勿体無いと言う生活が出来る。
 そういう生活を私共は求めての、信心でなからなければならないと思うんです。そして御大祭をを麗々しく覚えさして頂いて、あることの御大祭であった祭であったと有り難いお話を頂いてというて、例え帰ったと致しましても、それで持って帰っておかげの産みなされる働きの起こって来るような、有り難さでなからなければ、そん時だけの有り難さで終わってしまう。そこで大祭とは言うならば年に春秋のいわば御大祭、それに夏冬の報徳祭とか、夏の祈願祭もございますけれども。
 大祭と本当に銘打ってさして頂くのは、春秋の、四月の天地金乃神様の御大祭、秋の教祖生神金光大神祭であります。ですからもう本当に教祖の神様この世におわしまさなかったならば。私共がここにこうしてこしこしとおかげを頂くと言う事は出来ない。その教祖の神様の金光大神際に併せて頂くと言う事だけでも有り難いけれども、その御大祭をいかに奉仕、いかに拝ませて頂くかと言うところに、通いあう言うならば感じ合える信心というものがなからなければ。
 いうなら神様との仲がご覧になれば、反吐の出る様な信心にしか見えませんし、また自分自身とてもです、いつも何か知らんけれども、反吐の出る様な思いをしなければなりません。今日或方がお参りになって、今度玉串にそこの息子さんが当たっておられる。僕が日頃信心も出来んのに勿体無い、そげな事があるもんの神様のご神意のそれこそご神命だから、有り難く頂いて信心を神様が進めて行けよと言うてござるとじゃから、有り難く受けなきゃいけないよと。
 真剣んに僕かぁ信心もでけんのに、年の内に30日しか参って来んこの人は、寒中修行だけにお母さんを乗せて参って来るだけなんです。それで自分もやっぱりお参りすれば有り難いけれども、それがそんならそのう普通の時にゃお参りが出来ないと言う程度方なんです。だからお母さんからそう言われて、えぇそのう今日お母さんが声をかけて見える時に、分厚い御初穂をこう持って見えて。お母さんこれはあのうお店の金じゃないよっと、僕の給料から少しずつ貯めとった金がこれだけ貯まっとるから。
 明日の玉串をあげさせて頂く事に、お粗末御無礼のないようにね、今日お願いしとってくれと言いうて持って来た。私はそれをお取次ぎさして頂きましたら、迫ると言う事を頂きました。ね迫るね。家のつからせまられるなら逃ぎょうごとあるでしょうが。どうですかえのさん。好きな人から迫まれれるなら有り難いけれど、迫まると言う事言うならば神様に迫まるという、言うならば合楽し合う前提から、ははぁこう言う生き方これが神様へいうなら言うならば迫真と言うかね。
 真を持って迫ると言うのはこう言う事であろうかと、私は思わせて頂いた。迫る様な神様にね、ならなにを持って迫るかと言うと自分の心の全ての心の全てを、大祭なら大祭に傾倒する。そういう迫り方真心を持って、言うならば神様に接する時に神様にそれは迫る事になるのです。今日夕方ある方が今日御用頂いて、もう感動一杯というかいわゆる悲しさ一杯というか。悲しさとも相手方とも分からない様な感じでお届けがあった。んで熱心に日頃信心が出来ます。
 ですから御大祭のいうならば御用にもお使い回し頂きたいと、前々からもお願いしておられる。ところがね、今日に限って何か、遠い親戚かなんかの結婚式がある。それで主人と二人にそのう招待を受けておられる。呼ばれておられる。それでまぁ信心の無い主人に言うても分からんけれども、言うならば御大祭、その準備の御用が今日あるから、私はあちらを御無礼する、今日ん事ある日にお前ぁ行ってから、別にお前が役員ひとつしとる訳じゃなかけん、行かんで良かろうもんと言われたけれども。
 今日はそんな訳にはいかん、日頃の言うなら明日のお礼の御大祭前の一日位御用さしてもらわなければ相済まんからと言うて、まぁ主人に無理に説得してこちらへ参拝のおかげを頂いた。そして一日御用頂いた。そしてなら御用を頂きながら、その御用を頂く同志で、実は私のここを取ったらだったいう、まぁそれでも今日はこうやってこちらに御用を頂き参りましたんですよと言うてお話をしったら、その方が言われるのに私どんならご親戚の方に行くって。
 そげなぁ凝り積ませるようなごとしてからと言う意味な事が返って来た。さぁそれからもうとにかく寂しゅうして悲しゅうしてたまらん。皆さんどう言う事が本当だと思うですか。それは信心のそれぞれの過程なんです。私は今日、今日は日曜でもありますし明日がお参りが出来ないからと言うて、家族中でお参りしてくる方達が今日はいくらもありました。やっぱぁそういう方達はそういう方達の程度の信心なんです。今日は丁度むすがってちょうど応接の用事をしたら。
 一家族中で6,7名で子供連れで参って、是非私にお会いしたいとこういう。明日の御大祭にお参り出来ないからと言う訳ではないけれども。お願いしたい事がある、そしてあちらに通しましてから、話を聞かして頂いたんですけれども、もうあんた方もね10年もその上も合楽にご縁を頂いておられるのだから。大祭のどう言う様なものかくらい一応分かった信心に、おかげを頂く信心からどうでも信心を頂く信心に、受けなければいけないよと言うてその方についてお願いさせて頂いた。
 まぁ何月何日は御大祭、秋の御大祭にはどうでも一家中を挙げて、お礼参拝が出来ます様にと言う願いを込めなければいけない。そして願いが成就するそこにです神様とのいうなら御大祭を頂いてよかったという、有り難かったという何にか交流するものが生まれて来る。一生懸命の願いが成就する。おかげで今日の御大祭を拝ませて頂いたと言う時に、始めて神様と交流する。
 ただお願いがあればなら私でなけにゃ出来んいうて、ならお願いをしてかえる確かにあんた達の場合は、ここ10年間なあまり兄弟も親たちも皆んなおかげを頂いておる。それはまぁ北九州からお参りして来るのですから、やっぱ遠いといやぁ遠い合楽で言やぁまぁ近い方。言うならば春秋の御大祭に御無礼するぐらいの信心じゃいかんばい。言うならばおかげを頂く信心から信心を頂く信心になってもらって、不景気だから商売がないとか、どうかいよいよ通りがどうなったから、人が少なくなったとかと。
 そう言う事ではない。どんなに片田舎の田園、いわゆる田んぼの真ん中にある教会でも、言うならこんなに沢山お参りがここにはあるじゃないか。問題はおかげさえ頂けばいいんだ、信心さえ頂ければ、おかげ頂けるよと言うまぁ話した事です。そういうね祈りを込められた、御大祭であらなければならないと思うんです。今日久留米の稲垣さんがお届けをなさいますのに、ついこの神様ばかりがね、いかにも何かそこに、本当に交流するもの感じ合うもの。
 もうそれがたったこの位な事でも神様が感じて下さるんです。というお届けをしておられました、こんどの御本部参拝で奥城で一緒に、一生懸命御祈念をされる。するけれどもいつもいろいろ神様からお報せが頂かれるんです。ところがその日に限って神様が知らんふりしてござるような感じ。それでねちょっと目を開けて前の方を見たら、親先生がちゃんとした姿勢で、そのう御祈念をなさっておられるのを。それを見た途端にははぁこういう姿勢ではいけないなと思うて、自分の拝んでおる姿勢を思うた。
 それでこの胸をしゃんとして、言うならば姿勢を作った途端でした。もう次々とお知らせを頂いて有り難いと言う、神様はもう私の信心姿勢というものを、ちょっとこんな事ではいけんと姿勢を正した途端にもう交流してるんです。姿勢もなかっただから交流しない事が分かるでしょうが皆さん。神様ってもうこんデリケートな事はありません。神様と私共とのごと信心ほどデリケートなものはありませんです。
 いままで情けのうして情けのうしてというのが、有り難うして有り難うして言うなるんですから。そこから有り難うしてと言う様なおかげの道もまた開けて来るです。有り難いという心で感じ合える。交流し合えれる。そこに私共の信心の工夫がいるのです。前夜祭いよいよ万事万端、それこそ用意わさわさ怠りなしと言うくらいにあれからこれまで、まぁ準備が出来た明日はお祭りをお迎えするだけだと。
 そこに思いが込められる、そしていよいよ御大祭、幕を切って落とされる時にです、言うならお広前全体がいうならば感激感動のるつぼに化してしまう程しの中に。おかげを頂いて、そしてそのう有り難いものを頂いて帰って、それがおかげに通うて繋がって行く様な、一つ御大祭を明日はを皆さん拝みたいと思う。だからね、もう今晩の内にね明日の御大祭を拝む姿勢と言うものをです、心の状態というものを正しておかなければならないと言う事でございます。
 ちょっと坐り直したちょっと姿勢を、姿勢を正しただけでね、今まで神様が知らん振りしてござったのが、こちらを向いて言うならば何かをこちらに、それこそ向きを変えて下さったという感じである。前夜祭というのはそういう意味も含まれての前夜祭だと私はいつも思うです。女の方が明日は朝何時からね、明日は綺麗な髪を結い上げなきゃならん前の晩に綺麗に洗うて。
 それこそ明日結い上げてもらうばっかりにその準備をあの致しましょ。それとおんなじです。汚れたまま明日結うて下さいていうたっちゃ結い上げてくれませんです。きょうは綺麗に洗って乾かしといて。そして明日髪を結うて頂くと言う事になる時に、始めて素晴らしい髪が結い上げられるように。明日の御大祭をいよいよ有り難い素晴らしい御大祭にさして頂くために、今夜から心の準備言うなら心の姿勢を正さして頂いて、明日の御大祭を拝みたいと思います。
   どうぞ。